鳥羽院 後鳥羽上皇命日祭
2012年04月19日
神埼市デジタルミュージアム かんざき@NAVI at 17:05 | Comments(1) | お祭り
2月22日、後鳥羽神社で行われた、後鳥羽上皇命日祭の取材に行って参りました。
後鳥羽神社の「後鳥羽」とは、後鳥羽上皇のことです。

史実によると、上皇は治承4年(1180年)に御誕生し、5~19歳まで天皇として、建久9年(1198年)土御門天皇に譲位なさった後、上皇として政務をお執りになりました。
承久3年(1221年)上皇は、北条氏討伐を決行されましたが敗戦し、42歳で隠岐に流され、ここで60年の生涯を終えられました。
鳥羽院に残る伝説では、隠岐で十数年の歳月を過ごされたのち、上皇は、ここ「絹巻の里」(鳥羽院)に逃れていらっしゃいました。
そのとき、里人たちが火を焚き、稗粥をさし上げたところ、大変喜ばれた上皇は、「かくばかり身のあたたまる草の名をいかに人のひえと言うらむ」と御歌を読まれたそうです。その後、この地で余生をおくり、延応元年(1258年)2月22日60歳にて御崩御され、以来、「絹巻の里」を「鳥羽院」と呼ぶようになったといわれています。
現在、後鳥羽神社は後鳥羽上皇を主祭神とし、地域の氏神様として崇拝されています。

毎年、後鳥羽上皇の命日である2月22日に、宮司さんをお呼びして祭礼を行います。
鳥羽院地区は、上と下に分かれており今年は下地区が当番です。

米、塩、水、野菜、鯛、いりこ、海藻、果物、清酒などをお供えします。
これらを、神饌(しんせん)と呼びます。

玉串(たまぐし)とは、神事に用いる榊の枝で、玉串を神前に捧げて拝礼することを玉串奉奠(たまぐしほうでん)と言います。

祭儀の後に供えた神饌を食べる宴のことを直会(なおらい)といい、神事を構成する行事の一つです。
ここでは、「塩・いりこ・お神酒」を頂きます。
鳥羽院地区の皆様、ご協力ありがとうございました。
後鳥羽神社の「後鳥羽」とは、後鳥羽上皇のことです。

後鳥羽上皇と鳥羽院の伝説
史実によると、上皇は治承4年(1180年)に御誕生し、5~19歳まで天皇として、建久9年(1198年)土御門天皇に譲位なさった後、上皇として政務をお執りになりました。
承久3年(1221年)上皇は、北条氏討伐を決行されましたが敗戦し、42歳で隠岐に流され、ここで60年の生涯を終えられました。
鳥羽院に残る伝説では、隠岐で十数年の歳月を過ごされたのち、上皇は、ここ「絹巻の里」(鳥羽院)に逃れていらっしゃいました。
そのとき、里人たちが火を焚き、稗粥をさし上げたところ、大変喜ばれた上皇は、「かくばかり身のあたたまる草の名をいかに人のひえと言うらむ」と御歌を読まれたそうです。その後、この地で余生をおくり、延応元年(1258年)2月22日60歳にて御崩御され、以来、「絹巻の里」を「鳥羽院」と呼ぶようになったといわれています。
現在、後鳥羽神社は後鳥羽上皇を主祭神とし、地域の氏神様として崇拝されています。
祭礼

毎年、後鳥羽上皇の命日である2月22日に、宮司さんをお呼びして祭礼を行います。
鳥羽院地区は、上と下に分かれており今年は下地区が当番です。

米、塩、水、野菜、鯛、いりこ、海藻、果物、清酒などをお供えします。
これらを、神饌(しんせん)と呼びます。

玉串(たまぐし)とは、神事に用いる榊の枝で、玉串を神前に捧げて拝礼することを玉串奉奠(たまぐしほうでん)と言います。

祭儀の後に供えた神饌を食べる宴のことを直会(なおらい)といい、神事を構成する行事の一つです。
ここでは、「塩・いりこ・お神酒」を頂きます。
鳥羽院地区の皆様、ご協力ありがとうございました。
この記事へのコメント
かんざき@NAVI様
はじめまして、
森田と申します。
私の父と母の先祖がこちらの地域です。
何故か昔を思い出して懐かしいような気持ちです。
すばらしい情報に感謝致します。
はじめまして、
森田と申します。
私の父と母の先祖がこちらの地域です。
何故か昔を思い出して懐かしいような気持ちです。
すばらしい情報に感謝致します。
Posted by 森田 at 2012年09月24日 19:47
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